AI時代に大学が育むべき新しい教養
はじめに
AIによって、誰もが瞬時に情報を得られる時代になった。しかしその一方で、社会は以前にも増して分断され、政治、宗教、文化、国際問題などをめぐる対立は深まっている。SNSでは異なる意見が短い言葉で衝突し、相手の主張を理解するよりも、論破したり排除したりすることが目的になりやすい。
こうした状況のなかで、University College London(UCL)は2023年にDisagreeing Wellという取り組みを開始した。President & ProvostのMichael Spenceが提唱するその目的は、「相手を論破する能力」を育てることではない。
互いに異なる価値観を持ちながらも、相手を尊重し、同じ場にとどまり、共に考え続ける能力を育成することである。UCLはこの力を、大学で学ぶための技術であると同時に、分断の時代を生きるための市民的な教養と位置づけている。
「正しい答え」を教える大学から
従来の大学教育では、知識、専門性、問題解決能力が重視されてきた。これらは今後も大学の重要な役割である。しかし、生成AIが膨大な情報を検索し、整理し、一定の回答を提示する時代には、それだけでは十分ではない。
- 知識を保有すること
- 専門的な方法を身につけること
- 与えられた問題に答えること
これらに加えて重要になるのは、答えの定まらない問題に向き合い、異なる立場の人と協働する能力である。社会の重要な課題には、価値観や経験、利害の違いが関わるため、情報を増やすだけでは解決できないものが多い。大学には、学生が自分とは異なる考えと出会い、前提を問い直し、対話を通じて判断を深める機会をつくる責任がある。
Disagreeing Wellとは何か
Michael Spenceの問題意識は、自由に発言できることだけでは十分ではない、という点にある。本当に必要なのは、異なる意見が現実に出会い、互いに聴き、問い、考え直すことのできる自由な議論の文化である。
Disagreeing Wellは、単に礼儀正しく意見を交換することを意味しない。強く反対しながらも、相手がどのような経験や根拠からその立場に至ったのかを理解しようとする。意見や思想を批判しても、それを語る人間そのものを敵として扱わない。そのためには、次のような姿勢が求められる。
- 相手の話を最後まで注意深く聴く
- 争点を正確に確かめ、敬意ある質問をする
- 感情の動きを自覚し、反射的な応酬を避ける
- 自分の知識や判断が不完全であり、間違っている可能性を認める
- 相手を敵にせず、合意できる点や共通の関心を探す
ここで目指されるのは、必ず合意することではない。結論が異なるままでも、何について、なぜ意見が分かれているのかを明確にし、相互理解を一歩前へ進めることである。Spenceが重視する「認識上の謙虚さ」とは、信念を弱めることではなく、確信を持ちながらも、自分の見方を検討可能なものとして開いておく知的な態度である。
AI時代だからこそ必要になる能力
AIは知識を与え、選択肢を示し、議論の材料を整理することができる。しかし、価値の衝突をどう受け止めるか、どのような社会を望むか、異なる人びとの間でどのように決定をつくるかは、人間が引き受けなければならない。
- 判断
- 倫理
- 民主主義
- 合意形成
これらは、正解を受け取るだけでは身につかない。他者との対話のなかで、自分の言葉を選び、異論に耳を傾け、必要に応じて考えを修正する経験を通して育つ。知識の獲得が容易になるほど、知識をどう使い、誰とどのような世界をつくるかを話し合う能力が重要になる。Disagreeing Wellは、その能力を21世紀のリベラルアーツ教育の中心に置く試みである。
大学は「安全に議論できる場」であるべき
学生が安心して「私は違うと思う」と言える環境は、大学に不可欠である。ここでいう安全とは、不快な意見や難しい問いから守られることではない。人格的な攻撃や威圧を受けず、異論を述べても学びの共同体から排除されないという信頼である。
そのような心理的安全性があれば、学生は多数派の考えに従うだけでなく、疑問を表明し、新しい仮説を試すことができる。異論は組織を壊すものではなく、思考の盲点を明らかにし、創造性や学習を促す契機となる。大学は対立を消す場所ではなく、対立を知的な探究へ変える方法を学ぶ場所なのである。
UCLでは、公開イベントだけでなく、学生向け科目を基礎とするオンライン教材、スキル動画、ポッドキャスト、論争的な討議を支える学生議長の育成などを通して、この理念を実践へ移している。Disagreeing Wellは、一回の講義ではなく、大学文化全体に関わる教育プロジェクトである。
ERF Commentary
日本でも、「異なる意見を持つ人とどう向き合うか」を体系的に学ぶ機会は、いまだ十分とは言えない。ディベートやアクティブラーニングが導入されても、主張の巧みさや結論の正しさが重視され、相手の前提を理解し、関係を保ちながら対話を続ける力は見過ごされがちである。
AI時代の大学は、知識を教える場から、民主社会を支える対話能力を育む場へと役割を広げる必要がある。Disagreeing Wellは、その方向性を明確に示す試みの一つである。それは「議論の技術」ではなく、自由、相互尊重、知的謙虚さを実践するための教育哲学である。
この考え方は、Ronald Barnettが提唱するEcological Universityや、大学の公共的責任を重視するCivic Universityの思想とも親和性が高い。大学が世界と責任ある関係を築くためには、異なる人びとが同じ問題について考え続けられる知的な公共空間でなければならない。AIが情報を提供する時代だからこそ、大学には「どう考えるか」だけでなく、「どう対話するか」を育てる使命がある。
参考資料
- UCL, “Disagreeing Well”
- UCL, “We must learn to navigate disagreement successfully”
- UCL, “Disagreeing Well Online Learning Resource”
